【 概 要 】−高照神社に祭られている津軽信政は正保3年(1646)、弘前藩3代藩主津軽信義の長男として生まれました(母親は添田理兵衛の娘)。明暦元年(1655)に信義に死去に伴い明暦2年(1656)に4代藩主に就任しましたが、信政はまだ11歳と幼少だった為、成長するまで叔父にあたる津軽信英が事実上弘前藩の政務を執り行いました(津軽信英は黒石陣屋を拠点とする、後の黒石藩の祖を築いた人物)。信政は儒学者、軍学者で山鹿流兵法及び古学派の祖とされる山鹿素行に師事し多くの事を学び、後に素行を弘前藩に迎え入れようとしましたが幕府からの許可が下りなかった為、子供の政実を家老として登用しています。
信政は勉学に勤しんだ事で実際に藩政を行うようになると、新田開発や地場産業の育成、領内整備などを次々に行い弘前藩の全盛期を築きました。特に全国から有能な人物を登用した事で知られ、中でも江戸中期の茶人で一樹庵野本家の養子となった一樹庵4代目野本道玄は多くの実績を挙げています。野本道玄は本業の茶道普及だけでなく、有力寺院の作庭、焼き物や紙漉の指導、獅子舞歌詞復元などの文化発展、養蚕や楮の植樹、織物などの産業発展に大きく尽力しています。紙漉では越後和紙の職人である熊谷吉兵衛を招き貞享3年(1686)には「紙漉座」新設、現在でも紙漉で利用された御前水や富田の清水が残されています。
万治3年(1660)には信政の主導により西津軽の新田開墾の灌漑用水源の確保をする為に津軽富士見湖が築造、堤長は延長4.2キロに及び日本最大の長さと云われ広大な新田開発が行われ、天和元年(1681)の検地によると弘前藩の実石は28万石に達したとの記録が残されています(元禄7年:1694年には約30万石)。寛文9年(1669)の蝦夷蜂起(オニヒシ派とシャクシャイン派との対立抗争)では松前藩の援助要請を受けた幕府の命で蝦夷地へ出兵しています。
信政は社寺の造営も多くの実績を残し生母である久祥院の実家多田家の菩提寺隣松寺には久祥院の位牌堂を造営、熊野宮には紀州熊野那智大社の分霊を勧請、明暦2年(1656)には報恩寺を創建、宝永3年(1706)には貞昌寺の再建と境内の整備、万治3年(1660)に多賀神社(清水観音堂) を現在地に遷座し社殿を造営する共に社領4石3斗3升7合を安堵しています。
寛文6年(1666)には白八幡宮の社殿を造営、寛文7年(1667)と元禄10年(1700)に円覚寺の堂宇を再建、寛文7年(1667)には信義から引き継いだ大円寺(現在の最勝院)の五重塔の造営、延宝5年(1677)に袋宮寺観音堂に十一面観世音菩薩立像を寄進、延宝6年(1678)に普門院の観音堂を再建、延宝年間(1673〜1681年)に三新田神社の社殿を造営しています。
貞享元年(1684)に夢宅寺に扁額を寄進、元禄年間(1688〜1704年)に巌鬼山神社(十腰内観音堂)の社殿を再建、元禄7年(1694)に岩木山神社の本殿を造営、元禄9年(1696)に貴船神社の社殿を造営、元禄11年(1698)に神明宮の鳥居と石橋を寄進、江戸時代中期に大星神社の社殿の再建と庭園の造営を行っています。
元禄年間(1688〜1704年)には大名七傑に数えられる名君として全国的にも著名でしたが、晩年は失政が続き藩の衰退が顕著となりました。特に元禄8年(1695)の大飢饉では春先から天候不順で飢饉が当初から予測出来たものの前年度の年貢米を例年通りに他所に売りさばいた事で、極端な米不足を招き藩内での餓死者は10万人に及ぶ大失政を犯しています。
又、信政の3男である資徳が烏山藩の藩主那須資弥に養子となり家督相続した際には、資弥の次男である福原資寛と御家騒動(烏山騒動)となり改易、信政も連座し閉門を命じられています。宝永7年(1710)に死去。享年65歳。津軽信政は吉川神道の創始者である吉川惟足に師事していた事で吉川神道に篤く傾倒していた為、弘前城の西方高台に神域を設け神式によって高照神社が創建され祭られる事になりました。
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