菅江真澄: 善知鳥神社

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善知鳥神社

菅江真澄: 善知鳥神社(青森県青森市安方)

【菅江真澄】菅江真澄が始めて善知鳥神社を訪れたのは天明5年(1785)8月18日、火災の為社殿も焼失していました。社号については境内近くの浜で善知鳥、悪千鳥と呼ばれる鳥が数多く餌を求めてやってきたことが理由らしいが、現在は?ばかりで昔とは違っているとし、地名の「うとうやすたか」も「善知鳥=よしちどり」、「悪千鳥=あしちどり」が転じたものだろうと推察、これらの鳥は徳川家の献上した事があると、古老が話していたそうです。松前の渡航を希望していた真澄は善知鳥神社で占いを行い、「3年待つべし」の御告げが出たので、3年後機会があったら渡る事にしようと決意を改め、この場を立ち去っています。

次に真澄が善知鳥神社を訪れたのは天明8年(1788)7月7日、ここでは神社の由来や「うとう」についてかなり興味を持ったようです。由来については諸説あり延喜年間(901〜923)に善知鳥、悪千鳥が余りにも数が多く、田畑を荒らしまくった為、住民は都から許しを得て、大量に捕獲、絞め殺した後、高い塚を造り葬った説、年代は判らないが烏頭大納言藤原安方朝臣という身分の高い人物が罪を犯し、都から当地に流された後にこの浜で死没、その霊が鳥に乗り移り、沢山浜に集まるようになった為、その鳥を「烏頭鳥=うとうとり=善知鳥」と呼ぶようになり、その霊を慰める為、うとう明神として祀るようになったとされます。真澄が訪れた際の祭神は宗像明神だった事から筑紫の宗像大社(福岡県宗像市)と関係があるのだろうかと想像しています。善知鳥神社は200年前(真澄が来た時から逆算すると戦国時代頃?)に遷座した話を聞くと、元の遷座地を見学したいと思い付き、古老の案内で二本木と呼ばれる大きな2本(1本はイタヤカエデ、1本は樹種不明)の大木がある所まで連れてこられ、昔は「うとう鳥」が群がる「うとう沼」と呼ばれる大沼があったなどの話を聞いています。

【古川古松軒】古川古松軒が善知鳥神社を訪れたのは天明7年(1787)8月23日、巡検使の見分所の一つで、歌や書、謡、浄瑠璃の題材にもなり広く知られる旧跡であると評しています。当時の社殿は方一間の小規模な社殿で、善知鳥神社の詳しい由来を知る人もなく、遥か昔、厳島神社(広島県廿日市市)の神を勧請したと云われていますが、確たる証拠は無いとしています。傍らには津軽家が設けた宗像明神があるものの、自分が聞き及んだとは大きく異なっていたようです(思ったより大した事がなかった)。最後に「百聞は一見に如かず」と云われるものは世の中に数多くあるものだと評しています。

【善知鳥神社】善知鳥神社(青森県青森市)の由来によると允恭天皇の御代(412〜453年)、都から流された善知鳥中納言安方の霊夢に高倉明神の化身が立ち、その御告げに従い宗像三神の分霊を勧請し祠を設けて祭ったのが始まりと伝えられています。安方が死去すると、不思議な鳥が浜辺に降り立つようになり、雄は「ウトウ」、雌は「ヤスタカ」と鳴く事から安方の霊が乗り移ったとして噂していましたが、猟師が1羽の雄鳥を撃ち殺すと、他の雄鳥達は急に凶暴化し田畑を荒らすようになったので、安方の祟りとして雄鳥も祭るようになったそうです。その後荒廃しましたが大同年間(806〜810)に当地まで遠征してきた坂上田村麻呂が再興し、中世は長く当地を支配した南部家(後裔は盛岡藩主)により崇敬庇護され社運も隆盛しました。戦国時代末期になると津軽家の侵攻により荒廃し、その後も津軽領となりましたが、南部家は遠方(岩手県盛岡市)より支援し続けたそうです。

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