千曳神社(青森県七戸町)

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千曳神社

菅江真澄: 千曳神社

【菅江真澄】菅江真澄が始めて千曳明神(千曳神社)を訪れたのは天明8年(1788)7月5日、前日、相坂村に宿泊した真澄は朝早くに出立し三本木平の広い野に出て、七戸宿を経て坪村に至ります。ここで村人に「石ふみ」の事を尋ねると石文村に聞けば何か判るかも知れないとの情報を得て、石文村に向かいますが、その村には2軒程しか人家がなく何れも良く判らなかったようで、夕方になり、ようやく千曳明神(千曳神社)に辿り着き参拝に及んでいます。鳥居には盛岡藩の東沢文真という人の筆の額が掲げられ、社殿の下、地中深く「千曳の石」と呼ばれる石を何重も「あらごも(粗く編んだこもむしろ)」で包み埋め、祭神として信仰の対象になっていたようです。この「千曳の石」は歌枕で詠まれた「壺の碑」であるとの説を真澄は信じていたようで、一般的に「壺の碑」と呼ばれていた多賀城(宮城県多賀城市)の石碑は、多分「多賀城の碑」であろうと推測しています。しかし、地中深く埋まっている事から「千曳の石」を見る事が出来ず、再び来ることがあったら、詳しい人からゆっくり話を聞いてみたいとの感想を持ちこの地を離れています。

【古川古松軒】古川古松軒が千曳神社を訪れたのは天明7年(1787)8月26日、古くから巡検使の見分所の一つだったようです。当時の神官である教岩坊によると、神代の昔、当地に石の札を立、ここより北方から来襲する悪鬼を防いでいました。ある時、悪鬼が石の札を土中に隠した為、神々が探し出し、見つけ出した場所を「石文村」、建てた場所を「坪村」と呼ぶようになりました。その後、坂上田村麻呂が当地に進軍し全ての悪鬼を討ち滅ぼした為、石の札の霊力が不要となりました。そこで、当地に深さ7尺程の穴を掘り、石の札を千人で穴まで曳いてその上に社を設けたのが千曳神社の由来として語りました。古川古松軒は千曳神社の由来を聞いて可笑しいと感じたものの、頼もしいとも感じると評しています。又、古川古松軒は菅江真澄と同様に「壺の碑」は千曳神社の地中に埋まっている「石の札」であると断定し「多賀城の碑」は多賀城の門碑であろうとしています。その理由は当社の由来と「壺」は「坪」に通じ、古歌も碑が土中に埋まっている事を歌っている事を示唆しているとしています。「日本中央」の文字については阿倍比羅夫が北蝦夷と粛慎国を制し、靺鞨の地に日本の国境とした事から当地が概ね日本の中央になると推測したようです。

【源義経】源義経が「日本中央の碑」を見学した際、「三熊野の 続く小山の ふみ石を 見るに つけても 都こひしき」の歌を詠ったとされます。

【千曳神社】千曳神社青森県七戸町)の創建は伝承によると大同2年(807)に坂上田村麻呂によって勧請されたのが始まりとされ、その後神仏習合し江戸時代初期には、別当寺院として大光院(上北郡横浜に鎮座する八幡神社の別当寺院、山伏修験道本山派五戸多門院の配下)が祭祀を司ってきましたが延宝年間(1673〜1681) に火災により焼失し衰微します。千曳神社には古くから霊験ある石を社殿の下に埋めたとの伝承が伝わり、それによると「石の神で美男子である白明神から、壺子という美しい女性逢いたいとの御告げがあり、女性が住んでいた壺村に村人が千人で石の神を曳き、当社の下に埋めた。」とあります。江戸時代には既に、その石が歌枕で詠まれた「壺の碑」とする説があり、わざわざ訪ねる人も多かったとされ、明和2年(1765)には幕府巡検使も参拝する事となり社殿の再建が行われる事となっています(天明8年:1788年に巡見使が代参)。寛政4年(1792)には七戸城の城代七戸重政も千曳神社に参拝に訪れ「音にきく千曳石の跡しめてけふ陸奥のむかしをそ思ふ 物いは々宮居の松にふしまして千引にたゆまむ石の心を」の歌を残しています。明治9年(1876)明治天皇東北巡幸の際には新政府により「壺の碑」の伝説が本当かどうかの発掘調査が行われ、社殿の地中を掘り返しています。結局、「壺の碑」は発見されませんでしたが昭和24年(1949)に石文集落近くの赤川上流で「日本中央」と刻まれた碑が発見され、現在は真贋論争が盛んなようです。

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