【菅江真澄】−菅江真澄が始めて深砂大明神(猿賀神社)を訪れたのは天明5年(1785)8月16日、当日、間山祐真(13日に偶然出合い誘われるままに彼の家に宿泊した)と猿賀の神を詣でてそこで分かれようとの提案を受け、弘前の宿から一緒に出立して十腰内村の由来や十面沢の説明などを聞きながら猿賀に至りました。十腰内村の由来では、昔、当地には鬼が住み、鬼が打った鬼神太舗と呼ばれる名刀が10腰あったが現在は1腰足りなくなった事から「10腰無い」が転じて「十腰内」とし、無くなった1腰は李木川の底に沈み、人が近くを歩き影が水面に写ると突然襲い掛かり切れ味鋭い刃で切りつけるとされ、夏になると近くを歩かないように注意の札が掲げられていたそうです。十面沢は名称の通り、人の形に似た岩が10個ある事から呼ばれているそうですが、細かな由来等は判らないとしています。猿賀神社についてはまず鳥居には「深砂大明神」と記された額が掲げられ、境内には鬼の頭が埋められ事や「義経のぼりの石」があり、猿賀山神宮寺が別当となり、神官と法師が祭祀を司った事が書かれています。特殊神事としては正月から7日までは村人までが精進忌(肉や魚を食さない)を行い、7日目に草鬼と呼ばれる藁で作った鬼を神主が矢を射る神事があり、その矢が見事草鬼に刺さるまで続けられ、刺さった後に草鬼が土中に埋められると、精進落しが行われると説明しています(現在は3月1日に「鬼面奉射」という神事という形で受け継がれています)。
次に菅江真澄が深砂大明神(猿賀神社)を訪れたのは寛政7年(1795)11月14日、「深砂大権現」と金色の字で書かれた額が雪に反射し、新しく修理を加えたのだろうと感想を述べています。
【猿賀神社】−猿賀神社(青森県平川市)は仁徳天皇55年(367)に蝦夷討伐で当地に遠征し伊寺水門で討死した上毛野君田道命を祭る神社で、田道命の墓の近くで悪い事が続いた為、住民達は祟りを恐れて社を建て篤く信仰するようになったと伝えられています。その後、神仏習合し深砂大明神や深砂権現などと呼ばれ(坂上田村麻呂が当地に遠征していた際、深砂権現の化身が出現し勝利に導いた事から、深砂の神を祀るようになったとされます。)、歴代領主から崇敬庇護される事で社運も隆盛しました。戦国時代の兵乱により衰微しましたが、天正14年(1586)には大浦為信(後の初代弘前藩主)によって社殿が造営され、弘前藩(藩庁:弘前城)2代藩主津軽信枚によって別当寺院だった神宮寺を津軽天台四山の一つとして庇護し津軽家の祈願所としました。明治時代の神仏分離令、廃仏毀釈運動により形式的には仏教色が一掃され社号を猿賀神社に改め、祭神として上毛野君田道命を祭り現在に近い形となっています。猿賀神社本殿は文政9年(1826)に建てられた江戸時代後期の社殿建築の遺構として貴重な事から青森県の県宝に指定されています。又、旧暦1月7日の七日堂大祭と旧八月十五日の十五夜大祭前日の宵宮に奉納される津軽神楽は国の選択無形民俗文化財に指定されています。
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