岩木山の津志王丸・安寿姫:伝説

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古川古松軒の見解

岩木山(岩木山神社)

【古川古松軒】古川古松軒弘前城を訪れたのは天明7年(1787)7月15日、前日は碇ヶ関宿で宿泊し、羽州街道を北上して弘前城下に至り宿泊し、翌、7月16日には出立しています。

古川古松軒は岩木山岩木山神社)に興味があったようで詳しくその由来を述べています。弘前城から岩木山の麓まで二里半八町、麓から山頂まで三里、基本的に万年雪のようですが古川古松軒が津軽を訪れた年は残暑が厳しく雪がなかったそうです。古川古松軒は実際、岩木山神社に訪れていない事から、岩木山に鎮座する神社は権現と呼ばれる小社で祭神は判らないと評していますが、事実は弘前藩の領内最大の神社で津軽国一宮として津軽家から篤く庇護され、社殿も藩費によって造営され津軽の日光と呼ばれています。

由来については永保年間(1081〜1084年)に当時の領主岩城判官正氏が上洛中に騙されて西国に流されました。正氏には安寿姫と津志王丸という2人の子供がおり、子供達は父親を慕っていた為、母親と共に西国に下りました。しかし、途中で悪党に騙され母親は佐渡の国(現在の新潟県佐渡市)に売り飛ばされ、姉弟も丹後国由良(京都府宮津市由良)の山荘太夫に売られ奴隷のような生活を余儀なくされました。津志王丸は何とか逃げ出しとある寺院に匿われたものの安寿姫は弟を逃げ隠した罪により山荘太夫から惨殺されました。その後、どういう訳か津志王丸は本領である津軽国の領地が安堵された為、その権力を行使し山荘太夫は粛清され、その後、津志王丸と安寿姫の御霊が岩木山に祭られ岩木権現と呼ばれるようになったそうです。この由来から、丹波国出身の人が津軽の地に入ると必ず災いとなり誰一人として帰って来ないとされますが、古川古松軒は全くの怪説として信じていなかったようです。

しかし、出立前に御巡見使御下向が決まると、弘前藩主津軽家の家来が来訪し、もし丹後国出身の人がいたら津軽に来ない方が良いとの助言があり、丹後出身の川口久助殿が御供から外されています。この事を古川古松軒は諺である「大勢に手なし(大勢を相手にしては手段の施しようがないということ。)」と揶揄しています。又、古川古松軒は永保年間(1081〜1084年)は源頼義、義家父子が安倍頼時、貞任、宗任を討った前九年合戦から20年後の事で、岩城氏(岩木氏)がどの様な人物かも知らず津軽の地で伝えられたのであろうと評しています。一般的には中世に成立した説経節「さんせう太夫」が原作で、それを庶民にも判り易いように改変され題目「安寿と厨子王丸」として浄瑠璃などの演目で演じられてきたものが伝説化し、全国各地で同様の伝説が語りづ枯れ、岩木山神社に伝わるものも、その一つと思われます。

古川古松軒もそれを承知していましたが、弘前藩では本当の伝説として捉えており、上記のように「大勢に手なし」としか言いようが無かったと思われます。さらに、八朔重陽までの7日間が簡潔斎として岩木山に登拝する習わしがあるものの女人禁制で、女神である安寿姫が祭られているのに女性が参拝出来ないとは変な話であると評しています。古川古松軒は岩木山神社に伝わる伝説について神様や仏様が女性を嫌うはずは無く、単に山が険しく女性では登るのが難儀(遭難や事故に繋がる)為に禁止しているに過ぎないとし、国や城を傾ける女性がいるからといって、山も傾くと言われれば婦人も迷惑な話であると結んでいます。

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