聖寿寺館(本三戸城)概要: 聖寿寺館は青森県三戸郡南部町小向字聖寿寺に位置している城郭です。聖寿寺館は南部氏発祥の地と言われ三戸城へ移るまでは南部氏の本拠となっていたと推定されています。
南部家の祖とされると南部三郎光行は文治5年(1189)の奥州合戦の功により糠部郡を賜ると建久2年(1191)には当地に入り建久3年(1192)には政庁となる平良ヶ崎城(南部町指定史跡)が築かれています。
聖寿寺館の築城年は不詳ですが14世紀末期頃に本拠を移したとされ、南部家はここを本拠として勢力を広め北奥州の有力武将として成長し、城内周辺には氏神である本三戸八幡神社や菩提寺である聖寿寺、東禅寺、三光寺(庵)が設けられ城下町も発展し、当初は三戸城と呼ばれていました(新たに三戸城が築かれると、本三戸城や聖寿寺に因み聖寿寺館と呼ばれるようになっています)。
聖寿寺館は奥州街道と南部街道の分岐点という交通の要衝に位置し、標高約70m程(比高差20m)の高台、東西約330m、南北約280mの単郭の館で北側と東側は幅6m〜10m程の空掘、西側、南側が崖地として囲われ、規模や遺構などから領主の居館程度で防御的な設備が薄かったと思われます。
その分、周辺には佐藤館、小向館、馬場館など出城的な機能を持った城が周囲を固めて、それら全体で政庁の平良ヶ崎城と居館の聖寿寺館の防衛にあたったと思われます。聖寿寺館は発掘調査によると掘立柱建物4棟、竪穴建物29棟、竪穴遺構8棟に建物が確認され、中でも東西6.2m、南北14.2mの建物跡は青森県内の同種の遺構としては最大規模を誇り、向鶴が刻まれた刀装具や金箔土器など当時の南部家の勢力が感じられる遺物も出土しています。
天文8年(1539)、南部家の家臣である赤沼備中が南部晴政(南部家第24代当主)に反旗を翻し聖寿寺館を放火、赤沼備中は討伐されたものの、多くの建物や記録、家宝などが焼失しています。戦国時代の永禄年間(1558〜1570年)に三戸城を新たに築き本城を移した事で廃城になったと思われます。
現在は大部分が果樹園となり空掘の一部が僅かに見られる程度ですが、調査によると多くの建物跡や遺物などが発掘され保存状態は極めて良好とされます。聖寿寺館は中世の居館跡として大変貴重な事から平成16年(2004)に三光寺境内、本三戸八幡宮境内と共に国指定史跡に指定されています。
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