下北半島(むつ市): 斗南ケ丘市街地跡

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概要・歴史・観光・見所
斗南ケ丘市街地跡(むつ市)概要: 案内板によると「 斗南藩が市街地を設置し、領内開拓の拠点となることを夢見たこの地は、藩名をとって「斗南ケ丘」と名づけられました。明治3年1戸建約30棟と2戸建約80棟を建築し、東西にはそれぞれ大門を建築して門内の乗打ちを禁止し、18ヶ所の堀井戸をつくりました。そして市街地は、一番町から六番町までの大通りによって屋敷割され、一屋敷を百坪単位として土塀をめぐらせて区画したといます。しかし過酷な風雪により倒壊したり野火にあうなどした家屋が続出し、さらに藩士の転出はこの地にかけた斗南藩の夢をはかなく消し去り、藩士たちの努力も水泡に帰してしまいました。現在はわずかに残った土塀跡に当時をしのぶことができます。」とあります。慶応4年(1868)、元々勤皇だった会津藩(藩庁:会津若松城)でしたが長州藩(藩庁:萩城)、薩摩藩(藩庁:鹿児島城)の画策により朝敵となり、さらに恭順姿勢を見せたにも関わらず許されず、東北、北陸諸藩による奥羽越列藩同盟が結ばれる結果となりました。会津戦争では領内全域が戦場となり多大な被害を受けて会津藩は降伏、廃藩となりました。明治2年(1869)、各方面からの嘆願により松平容保の嫡男容大に家名再興を許され、陸奥三戸、上北、下北郡3万石で斗南藩が立藩しました。しかし、明治4年(1871)廃藩置県が執行されると斗南藩が廃藩となり、幼少だった藩主松平容大は東京に引き上げた為、残された藩士は志を失い多くが離散し市街地も荒廃しました。
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斗南ケ丘市街地跡:写真


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斗南ケ丘市街地跡:周辺・観光・見所


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