順法寺城跡(むつ市)概要: 順法寺城は宝治年間(1247〜1249年)、安東盛親(宇曾利郷の領主)によって築城されたと伝えられています。以後、宇曾利安東家の居城として利用されましたが鎌倉時代末期に家臣である新井常安が謀反を起こし、当時の城主安東元親は討死、宇曾利安東家は没落します。建武元年(1334)にはその新井常安を討伐する為に南部師行が家臣である武田修理と赤星五郎に追討させ常安は滅ばされています。南北朝時代に入ると南部信政が南朝に属した為、正平3年(1348)には後村上天皇から託された良親王(後醍醐天皇の孫、護良親王の皇子)を順法寺城に招き居城としています。
良尹王の後裔は北部王家を称し当地域を支配しましたが文安5年(1448)、武田信純(蠣崎蔵人)の画策により当主義純をはじめ主要の一族を舟遊びに誘い出し溺死させ、残った一族も毒殺し下北半島を掌握します。享徳4年(1455)、南部政経は武田信純(蠣崎蔵人)の追討する為、下北半島に大軍を送り込み居城である蛎崎城は落城、支城だった順法寺城も落城したと思われ乱の平定後に廃城となっています。
戦国時代に入ると南部家の家臣菊池豊後守正義が利用したとされますが、江戸時代に入ると跡を継いだ菊池正興が田名部館に移っているのでその後荒廃したと思われます。順法寺城の規模は案内板によると郭が5箇所、櫓が6箇所、門が5箇所、石垣の高さ最高約10.3m、堀は深さ約1.8mの3重で1の堀の幅は約11m、2の堀の幅は約14.5m、3の堀の幅は約10mあったとされます。現在は自衛隊や小学校の校庭、海の侵食などで明確な遺構は無いように思われます。
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