北門(亀甲門)概要: 弘前城北門は以前、大光寺城の城門を慶長16年(1611)に移築したもので、実戦経験のない弘前城の中で唯一実践の痕跡が残り柱には多数の矢傷や刀傷を見ることが出来ます。弘前城に現在残っている城門の中では規模が最大で矢狭間や鉄砲狭間がないなど多の城門とは異なる形式を持っています。弘前城は四神相応の思想で築かれており、北方の守護神として北に位置する丘陵に住むとされる玄武を想定され、玄武は脚の長い亀に蛇が巻き付いた神獣だった事から、それに因み亀甲門と呼ばれました。弘前城北門はは桃山時代の城門建築の遺構として大変貴重な事から昭和12年(1937)7月29日に国指定重要文化財に指定されています。文化10年(1813)に発生した民次郎一揆の際には一揆衆2千人が亀甲門を突破し、当時の藩主津軽寧親に直訴しています。
大光寺城: 室町時代以降、大光寺城は南部家の支配下に入り、当初は重臣である北信愛が城主となり、その後、滝本重行が配されています。重行も信愛と同様に南部家の家臣で概ね1万5〜6千石を領していましたが、天正2年(1574)、南部家の一族である大浦為信は突如として本家筋である南部家に反旗を翻し大光寺城を急襲、この戦いでは重行方が勝利したものの、天正4年(1576)に再び為信が侵攻し奮戦虚しく落城しています。天正7年(1579)には南部家による奪還作戦が決行されたものの敗退しています。慶長15年(1610)、弘前城が築城された際に破却され、用材が弘前城に再利用されたとされ追手門は北門(亀甲門)、本丸御殿の一部が専光院、城門が誓願寺の鶴亀門として移築されたとされます。
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