青森県護国神社(弘前市)概要: 青森県護国神社の創建は明治2年(1869)、弘前藩主津軽承昭が戊辰戦争で戦死した藩士67柱の御霊を弘前城下宇和町(現在の弘前市常盤坂りんご公園)で慰霊したのが始まりとされています。弘前藩は慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、中立として日和見的に行動し、新政府軍が有利になると、官軍に与したと旗色を鮮明にする為、盛岡藩(藩庁:盛岡城)領に侵攻し盛岡、八戸藩(藩庁:八戸城)連合軍と交戦「野辺地戦争」となり、敗退し多くの犠牲を出しています(弘前藩の記録では29名、墓碑数は27基、実際は45名とされます)。
明治2年(1869)の函館戦争では既に帰趨が決していた事もあり積極的に行動し2207人を兵数させ函館でも多くの犠牲が出ています。明治3年(1870)には富田村に招魂堂を建立し上記の御霊に加え弘前藩の援軍で訪れた官軍諸藩で犠牲になった御霊も合祀されました。明治21年(1888)に弘前市上白銀町に遷座し、さらに明治43年(1910)に旧弘前城四之丸である現在地(弘前公園)に再遷座し「弘前招魂社」と社号を改めました。
その後、昭和11年(1936)に「青森縣招魂社」、昭和14年(1939)に「青森縣護國神社」と改称され日清、日露、大東亜の各戦争などに戦死した御霊を合祀し現在でも青森県出身の御霊2万9171人が祀られています(太平洋戦争後、占領下では護国神社は日本人の精神の拠り所となっていた事から連合軍により社号の改称を促されましたが、青森県護国神社ではその要求を拒否し社号を守ったとされます)。
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