追分石(折橋番所)概要: 追分石は羽州街道と津軽街道の分岐点に設置されたもので当時の道路標識として機能しました。南部氏と従属関係であった津軽氏は津軽地方の南部氏勢力を掃討し逸早く小田原の役で豊臣秀吉と謁見し所領を安堵されたことで完全に南部氏から独立しました。南部氏から見ると完全な裏切り行為だった為、関係が悪化、度々不穏な状況となり、江戸時代に入り参勤交代が常になると秋田藩を経由するルートの方が安全性を確保出来るとして羽州街道を利用するようになります。特にこの地は重要視され折橋番所が設けられ物資や人物改めなどが行われ碇ヶ関御関所を補佐する役目を負いました。
案内板によると「この場所は、羽州街道と津軽街道の分岐点である。旅人の道路標識として追分石がある。その昔、羽州街道より津軽街道が多く利用されていたのであるが、津軽藩祖為信公が津軽地方を統一する以前は大浦為信と称し、津軽地方に散在する南部勢の諸城を攻撃し、そして落城させるのである。それで南部勢は失地回復のために、この津軽街道を利用して津軽地方に侵入したのである。天正14年(1586)に矢立峠を切り拓いて羽州街道を結んだので、津軽街道を利用することが少なくなったのである。羽州街道は、4代藩主信政公の時から参勤のための江戸への往還街道となり、整備されたのである。道幅5間(約9メートル)に土手を作り、松を植え、溝を掘り、街道を整備する役人も置いたのである。この場所はまた、折橋番所を置いて厳重に取り締まった。 平川市 」とあります。
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