松倉神社(五所川原市)概要: 松倉神社青森県五所川原市前田野目野脇に鎮座している神社です。松倉神社が鎮座する梵珠山は古くから霊山として知られ、年代不詳ながら法明坊(役小角の高弟)が観音寺を創建しました。
大同2年(807)、平城天皇は、梵珠山が京都から北東にあたる霊地である事から都の鬼門鎮護の為、80社、300余の堂宇、社殿を造営、東夷東征で当地まで派遣された坂上田村麻呂も十一面観音像を安置し再興に務めました。
その後、梵珠山は津軽の一大霊場として発展し何時しか津軽三千坊とも呼ばれましたが時代が下がると信仰も薄れ衰微しました。承元2年(1208)、奥州平泉(現在の岩手県平泉町)藤原家の一族である吉次、吉内兄弟は源頼朝の追手から逃れ当地に辿り着き、荒廃していた観音寺を再建、石垣金光上人を招いて中興開山します。
松倉神社はその後、津軽の覇者となった安東氏の庇護のもと多くの堂宇が建ち名並び再び隆盛しましたが、戦国時代に安東氏が南部氏の侵攻により敗れ去り津軽の地を離れると再び衰微しました。
文禄年間(1593〜1596年)に松倉飛龍宮として再興されると津軽三大権現の1つ中山権現として信仰されるようになり正保2年(1645)には弘前藩(藩庁:弘前城)3代藩主津軽信義より津軽三十三観音霊場の札所に選定されました。
宝暦年間(1751〜1763年)、数多くの参拝者が訪れるようになると小高野と呼ばれる門前町も出来、益々信仰が広がり活気を呈するようになりました。明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により仏式が配され、改めて天照大神を祀る闇おかみ神社に社号を改めています。
明治5年(1872)に前田野目熊野宮を合祀した事を機に松倉神社に改称、明治6年(1873)に郷社郷社に列し、明治44年(1911)に神饌幣帛料供進社に指定、旧熊野宮の社殿を松倉神社の里宮(遥拝所)としています。
津軽三十三観音霊場第25番札所(松倉観音堂・札所本尊:十一面観世音菩薩 ・御詠歌:あな尊と 導き給え 観世音 誓いをここに 松倉の宮)。例祭:旧暦7月10日。祭神:大山祇神、大名持神、少名彦神。
|