日本中央の碑(東北町)概要: 日本中央の碑は文治年間(1185〜1190年)に歌学者の藤原顕昭が難解な歌語を抄出・解釈した「袖中抄」という歌学書の中に記載されているもので、それによると歌枕の「いしぶみ」とは陸奥(現在の主に東北地方の太平洋側)の奥、日本の東の果てにあり、坂上田村麻呂が弓の先で石の面に日本の中央と書いたものとされます。藤原顕昭は陸奥は東の果てだが蝦夷地には島が多く、千島列島を含めると日本の中央とも言えるとも記載しています。何れにしても「つぼのいしぶみ」は中央にも知られた存在で多くの文人墨客や貴族、武将などの著名人が和歌や文学の中で歌枕として利用していました。
その後、人々の記憶から消えましたが、江戸時代に入った万治〜寛文年間(1658〜1672年)、多賀城(宮城県多賀城市)跡から多賀城碑が発見された事から壺の碑(つぼのいしぶみ)とされ元禄2年(1689)には奥の細道の道中で松尾芭蕉も見学に訪れています。奥の細道は西行法師の旧跡を巡る旅でもあり、西行が「みちのくの 奥ゆかしくぞおもほゆる つぼのいしぶみ 外の浜風」と詠っている事から目的地の1つだったと思われます。
しかし、江戸時代の紀行家である菅江真澄などは否定し、南部藩が編纂した「旧蹟遺聞(旧蹟遺集は南部藩の国学者である黒川盛隆が領内の風土記、名所、旧跡をまとめたもの)」を肯定的に捉えています。七戸町に鎮座する千曳神社には次ぎのような伝説が伝わっており、それによると、神話の時代に石の札を建て、この石の札より北方から来た鬼を追い返していたが、ある時鬼がこの石の札を地中深く埋めてしまい悪さを行ったので、神々が石の札を探し出し再び石文村建て直したそうです。
その後、坂上田村麻呂が東夷東征の為、当地に進軍し悉く鬼を撃ち滅ぼした為、石の札が不要となり、田村麻呂の命で石文村から坪村まで千人で石の札を引き土中に埋めて社を建立したと伝えられています。明治9年(1876)、明治天皇が東北地方を巡幸する際、政府の命で「つぼのいしぶみ」を発見すべく千曳神社の社殿が移され大規模な発掘調査が行われましたが発見には至らず、昭和24年(1949)に地元の住民が千曳集落と石文集落の間の湿地帯から「日本中央」と刻まれた石碑を偶然発見しました。
「日本中央」という文字は「袖中抄」の記述と合致し、伝説の伝わる千曳神社に近い位置にある事から、これこそが「つぼのいしぶみ」として多くの学者など有識者が調査にあたりましたが結局真偽は不詳で現在に至っています。そもそも「日本中央」の意味にも諸説あり、さらに坂上田村麻呂が現在の青森県に来た史実が無い、「日本中央」の文字が稚拙などなど問題点が多過ぎですが、一方で地名である「坪村」、「石文村」、「千曳」や、「袖中抄」で記載されていた陸奥の奥、日本の東の果てにも一致しています。何れにしても謎とされます。
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